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  3. 京都府「納とく翁の納豆紀行」

芭蕉の「ふくと汁」の句で、江戸では、味噌仕立ての河豚を食べていたと、岐阜・下呂市のくだりでご紹介したところ、「上方ではどうだった」とのお問い合わせをいただきました。芭蕉の高弟宝井其角(タカライキカク)が元禄7年(1694)、二度目の京に上がった時の句に、

があります。河豚を洗う鴨川(加茂川)の水が濁っている情景の句です。洗った身は、ちり鍋などにして食していたようです。河豚毒を水で流せることが分かってきたのでしようが、生活用水としていた人達や加茂川の生き物がどうなったのか気になるところです。酒や、豆腐などの食物も含め文化・芸術の多くは、上方から「下(クダ)って」来たので、江戸でも間もなく、同じような食べ方が始まったのではないでしょうか。

さて、稔りの季節、「みちのく」の旅をしてまいりました。黄金色の稲穂が爽やかな風に揺れ、ところどころ大豆畑の葉も黄色く枯れ始め、間もなく葉も落ちて収穫の時期を迎える頃でした。新大豆は、美味しい豆腐、味噌、納豆となることでしょう。
何時でも手に入るだけに、季節感は薄くなりましたが、俳句の世界では、「新豆腐」は秋の、そして「味噌作る」と「納豆」は冬の季節の言葉(季語)となっています。ところが、「納豆作る」は不思議なことに夏の季語とされているのです。この「納豆」は、糸引き納豆ではなく、大徳寺納豆や浜納豆などいわゆる寺納豆で、発酵は「納豆菌」と「麹菌」とそれぞれ異なります。
大豆の発酵食品が体に良いのは「納得」しておりますが、それぞれ何時頃、何処から生まれたものなのか分からないことだらけです。好奇心をかきたてられ、先ずは、様々な文化の源となることの多い上方を訪ねてみようと思い始めました。「そうだ!京都に行ってみよう」であります。

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慶長7年(1602)と芭蕉よりも四十年以上早く京に生まれ、寛永年間(1620年代)に誹諧(当時俳は言偏だったようです)の一つの流れを作った俳人松江重頼(マツエシゲヨリ)の作と言われている句に、

があります。
句の意味をそのまま解すると、「納豆の糸を引くのも身分の卑しい者の仕業である」と何を言いたいのか良く分かりません。当時の誹諧は、故事を踏まえたり、謎解きのようなものも多かったようなので、深読みしてみました。
『徒然草』に紀貫之(キノツラユキ)の「糸によるもならなくに別れ路の心ぼそくも思ほゆるかな」という和歌をあげて、こんなことが書かれています。
「身分の卑しいものやきこりのことを和歌に詠めば趣は深くなるから不思議だ。紀貫之が都に上がるときは『糸を撚って行くような気持になるのに都落ちの時はだんだん淋しくなる』とつまらない和歌を詠んだが、今どきの歌人はこの程度の歌さえできない」というものです。
重頼は、京都の裕福な絹織物商人で、絹糸を撚って商いをしていましたので、この「糸」に「納豆」をかけ「私のようなもの(賤は、自分のことを卑しめて使っています)ではあるが、誹諧を趣のあるものにしてきたなあ」と詠んだのではなかろうかと思うのです。
この句に引用されているように糸ひき納豆は、当時の京で、すでに一般的な食べ物になっていたようです。間違いなく400年前の京都には納豆が存在し、代を重ねた老舗の多い京で納豆のルーツの切れ端でも見つかるかと、やってまいりました。

食文化を育み守ってきたこの町で、「納豆」の名の付いた食べ物に、古くから続いている「大徳寺納豆」があります。納豆菌で作られる糸ひき納豆とは異なり、麹菌で作られる「納豆」ではありますが、主材料が同じということで、「撚糸(ヨリイト)」をほぐす手掛かりを探してみましょう。

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「納豆」の冠についている大徳寺は、京都の北に塔頭(タッチュウ)と呼ばれる小寺院を幾つも持った広大な境内の臨済宗大徳寺派の大本山です。
平安時代にはすでに礎となった寺があったようで、正中2年(1325)に、宗峰如超(ショウホウミョウチョウ)が龍宝山大徳寺として開山されたとあります。南北朝時代には、両統の帰依を受けたことがかえってあだとなり、室町幕府からは冷遇され、応仁・文明の乱では、多くの伽藍が消失しました。大徳寺は衰微したようです。北朝6代の天皇である後小松天皇(ゴコマツテンノウ)(歴代100代)の落胤ともいわれている一休宗純が、103代の後土御門天皇(ゴツチノミカドテンノウ)の勅命により大徳寺第48代(47代という説もある)住持となり、堺の豪商などの力を借りて、文明10年(1478)から文明13年(1481)に掛けて復興したと書き残されています。
その後戦国諸大名の支援をうけ再び隆盛を果たし、十八世紀半ばには塔頭(タッチュウ)24、准塔頭59、末寺は25か国に280寺を越えたとあります。
最近では、末寺約200寺のうち京都周辺の近畿圏に90余、福岡を中心とした北九州に約70、神奈川・東京を中心に約40が分布しており、他の地域に末寺は、あまり見掛けないようです。

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その大徳寺の総門の門前に何軒か「大徳寺納豆」を販売している店がありますが、慶長年間(1596〜1615年)から18代続いている「大徳寺納豆 本家磯田」さんの当主にお話を伺うことが出来ました。20代の半ばで家を継ぎ二十余年一筋に大徳寺納豆を作られていらっしゃるそうです。
材料が、大豆、はったい粉、麹菌、塩とシンプルなだけにそれぞれの材料は十分吟味したものを選んでいるとは思っておりましたが、その作る作業のお話を聞いてみると、まるで修行のような作業の内容に驚きました。
煮た大豆を、室(ムロ)ではったい粉やもろみなど必要な材料と併せた後、5月から8月にかけ発酵させ、十分発酵したものを10月から11月まで天日干しするそうです。出来上がった「大徳寺納豆」の塊を「割り」製品にするまで、発酵の出来や天気の具合を見ながらの作業は、気の張った日々を強いられるに違いありません。ご主人がすべての作業を終わると「気力が抜け何もする気がしない」というのも分かるような気がします。

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何処でも同じ材料を使いながら味や出来が異なるのは、それぞれの「室」に住んでいる麹菌が違うからのようで、掃除するのにも気を使っているようです。
帰り際に、ご主人が言っていた「奥深いので手が抜けない」という言葉が心に残りました。出来上がった「大徳寺納豆」は生きていながら常温で保存できるため、古くから常備食材として続いてきたのでしょう。
小田原で炎上消失した後、徳川家康が天正19年(1591)江戸神田に(現在は、練馬区石神井川の近くに移転)再興した臨済宗大徳寺派の広徳寺で伺ったところ、関東に大徳寺納豆を作っているところは、何処にも無いようで、大徳寺の塔頭から取り寄せているとのこと。
大徳寺納豆は、それとは異なる主材の黒大豆である中国の食材豆鼓(トウチ)とよく似ています。中国に渡り学んだ臨済宗の僧侶たちによって持ち込まれ、大徳寺で作り伝えられてきたのではないかと思うのですが、大徳寺の塔頭の中でも作らなくなったところが増えているようです。
完成までの労力と気力が半端ではないからかもしれません。
それでも、食べてみると後を引く、つまり身体が求めているのです。健康のため身体がささやいているのだと思います。
一休宗純が八十八歳まで長生きしたのも体が求めるものを食していたからではないでしょうか。
「納豆」を商品登録した国があるやに聞いたことがありますが、長い歴史をもつ食文化を、多くの人々の健康のためにも尊重して守っていきたいものです。

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ご主人との面談を終え、大徳寺から紅葉の深まった洛北を金閣寺まで歩き、谷崎潤一郎の定宿でもあった八坂の塔の近くの京の町家風の宿に戻ってきました。
ぐっすりと心地よい眠りから目覚めた翌日の明け方、外はかすかに雨の気配がしておりました。

納豆マップキャラクター 納とく翁


撚糸が気持ち良くほぐれたとは言い難く、
まだ旅を続けることになりそうであります。

納とく翁 記