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納豆文学史「納豆と文学、ときどきこぼれ話」

その15 納豆ぎらいの納豆小説−宮本百合子『一太と母』

宮本百合子(1899-1951)は、作家であり、日本共産党の活動家でもありました。日本共産党委員長を務めた宮本顕治の妻として、第二次世界大戦前から彼の活動を献身的に支えていたことでも知られています。彼女は「身辺打明の記」(昭和2年)のなかで、

嫌いなものといえば、何よりも先ず納豆です。北国の人は一体納豆を好むようですが、わたくしは、福島県の生れですし、父祖の生れは山形県ですし、それに父も母も納豆が嫌いではないのですが、わたくしはどうも駄目です。母なぞは「お前は国の納豆をたべないからだよ、たべず嫌いなんだよ」と申しますけれど、わたくしも、その国の納豆――山形県の――を見て知っていますが。――東京の納豆の三分の一ほどの、それは小さな納豆で、東京の納豆のような変な臭いもないのですが、兎も角わたくしには手が出ません。

と書いているように、どうも納豆が好きではなかったようです。しかし、そんな彼女の小説になぜか納豆売りが登場しているのです。しかも、その納豆売りには温かなまなざしが向けられています。共産党の活動家として常に庶民の味方であろうとした宮本百合子は、納豆売りのけなげな姿には、やはり好意を持って見ていたのかも知れません。そうしたようすが「一太と母」(昭和2年)にも描かれています。

一太は納豆を売って歩いた。一太は朝電車に乗って池の端あたりまで行った。芸者達が起きる時分で、一太が大きな声で、
「ナットナットー」
と呼んで歩くと、
「ちょいと、納豆やさん」
とよび止められた。格子の中から、赤い襟をかけ白粉をつけた一太より少し位大きい女の子が出て来る、そういうとき、その女の子も黙ってお金を出すし、一太も黙って納豆の藁づとと辛子(からし)を渡す、二人の子供に日がポカポカあたった。
 家によって、大人の女が出て来た。
「おやこの納豆やさん、こないだの子だね」
などと云うことがあった。
「お前さん毎日廻って来るの」
「うん大抵」
「家どこ?」
「千住。大橋のあっち側」
「遠いんだねえ。歩いて来るの?」
「いいえ、電車にのって来る」
 たまに、
「ちょっとまあ腰でもかけといき、くたびれちゃうわね、まだちっちゃいんだもの」
 などと云われることもなくはなかった。そんなとき一太の竹籠にはたった二三本の納豆の藁づとと辛子壺が転っているばかりだ。家にいるのは女ばかりで、長火鉢の前で長煙管(ながぎせる)で煙草をふかしている一太の母位の女や、新聞を畳にひろげて、読みながら髪を梳(す)いている若い女や、何だかごちゃごちゃして賑やかな部屋の様子を一太は珍しそうに見廻った。いろんなものの載っている神棚があり、そこに招き猫があった。
「ヤア、猫がいらあ」
と一太は叫んだ。そして、どこかませた口調で、
「あれ、拵(こしら)えもんですね」
と云った。
「生きてるんだよ」
「嘘!」
「本当さ、今に鳴くから待っといで」
「本当? 本当に鳴くかい? あの猫――嘘だあい」
「ハハハハハ馬鹿だね」
 そんな問答をしているうちに、一太は残りの納豆も買って貰った。一太は砂埃りを蹴立てるような元気でまた電車に乗り、家に帰った。一太は空っぽの竹籠を横腹へ押しつけたり、背中に廻してかついだりしつつ、往来を歩いた。どこへ廻しても空の納豆籠はぴょんぴょん弾んで一太の小さい体を突いたりくすぐったりした。一太がゆっくり歩けば籠も静かにした。一太が急ぐと籠もいそぐ。一太が駈けでもしようものなら! 籠はフットボールのようにぽんぽん跳ねて一太にぶつかった。おかしい。面白い。一太は気のむくとおり一人で、駈けたり、ゆっくり歩いたりして往来を行った。……

というように、一太郎というけなげな納豆売りの少年を登場させています。また『蛋白石』にも、

食事の時なんかに千世子の好きなものとそうでないものとを教えて居るのなんかを聞くと何だか悲しい様な気持さえした。
「でも納豆と塩からなんかがおきらいな位ですもの、困りゃあしませんよ。」
と云って居るのもきいた事があった。

という部分があり、百合子の納豆嫌いを反映しているかにも思われます。ところが、夫顕治との手紙のやりとりには、

十月三日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 長野県下高井郡上林温泉せきや方より(地獄谷の写真の絵はがき)〕

十月三日。一日に仕事が終らず、二日に出発。上野から長野まで汽車。長野から湯田中まで電鉄。その後自動車でのぼり二十分ばかり来ると、桜並木のところに、店頭にお菓子を並べてタバコの赤いかんばんが出ている、そこがせきやです。部屋からは、その桜並木、むこうの杉山、目の前には杉、桜、楓など。お湯はおだやかな性質で、よくあたたまります。ウスイのとんねるを知らないほど眠って来てしまいました。空気がよくて鼻の穴がひろがるよう。二つの部屋に栄さん、私とかまえて居ります。今日も雨です。
栄さんがお湯で、アラ、と云って立ってゆくから、ナニときいたら青い雨蛙が青い葉の上で動いたのでびっくりした由。二人ともあんまり口もきかず、のびるだけ神経をのばして居ります。
いねちゃんが上野まで送ってくれました。汽車がカーブにかかるまで赤いジャケツが見えました。
昨夜は何時に眠ったとお思いになりますか? 六時半よ。そしてけさ、六時半。納豆、野菜など、なかなか美味です。きょうテーブルをこしらえて貰います。

とあり、疎開先の納豆が美味だと記してもいます。戦時下の食卓という事情もあったのでしょうが、とにもかくにも夫の留守に家族を健康で守り抜かなくてはならないという気持ちが、彼女に納豆を食べさせたのかも知れません。

納豆ぎらいの納豆小説−宮本百合子『一太と母』

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