1. トップ
  2. 納豆百科事典
  3. 大佐と、アップルトン女史は、納豆業界を救った恩人

納豆発展の歴史

大佐と、アップルトン女史は、納豆業界を救った恩人

 戦後間もない頃、私は、野田にある大手醤油メーカーの茂木氏を、京大の戸田教授と訪ねたことがあります。それというのも、日本人の栄養には一にも二にもタンパク質の補給が急務であると考え、そのヒントがあるのではないかと考えていたからです。

製法パネル

ハウ大佐を無二の親友とした、
終戦時の厚生技官医学博士
大磯 敏夫氏(91歳)
渋谷ニューハイム前にてインタビュー後に撮らしていただいた一枚。

 ところが意外にも茂木氏は一笑し「キミ、どうせ国のお金で研究するのなら、今もっとも脚光を浴びている抗生物質をやった方が、出世の最短コースになるよ」と諭されたのを覚えています。それでも私は「豆腐、味噌、醤油」の1日も早い産業復興こそ、タンパク質供給の早道になるという考えに沿って行動を進めました。

 GHQの栄養部長を務めたハウ大佐とは、本当に息の合った中で、週末になると拙宅に来て1日を費やすといった関係が長いこと続きました。大佐と、アップルトン女史は、戦後再起不能の壊滅状態に近かった納豆業界を救った恩人であるといえると思います。二人はかねてより、日本人の栄養源は大豆タンパク以外にないと断じていたようでした。

私が唖然としたのは、統制を撤廃して、500トンもの原料を本国へ手配してくれたことです。昭和23年頃の回顧ですが、これがなければ、あるいは今日の納豆産業は成り立たなかったかもしれません。

 また、あれは忘れもしない昭和22年。冬を目前にして、このままの状態では大勢の餓死者が出ると予測し、独断でGHQ司令室へ参じて「私の予測が的中したら、それはこの惨状を放っておいたアメリカの責任ではないのか」とう主旨のことを述べました。
「それなら、予測を裏付ける証拠があるのか」と切り替えされたため、国民の栄養調査が必要であるということを提言。すると早速3万人分のデータを資料にして出せといわれたため、私は寝食を忘れてデータを揃えて提出しました。3万人分の提出資料が認められて、即刻アメリカから救援物質が到着。その手際のよさとスピードに、さすが先進国だと感心しつつも、涙があふれたのを覚えています。
 私が、昭和22年から26年の間に研究した日本人の栄養状態に対する詳細記録は、GHQがアメリカへ持ち帰ったため、残念ながら日本には残されていません。

 今考えれば、戦争で失ったものも大きいけれど、ハウ大佐との交流も含めて、ずいぶんと貴重な体験をしてきたものだという思いを禁じ得ません。