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納豆文学史「納豆と文学、ときどきこぼれ話」

その7 江戸っ子の納豆の食べ方−柴田流星『残された江戸』

柴田流星(1879-1913)は、本名勇、小説家、翻訳家、編集者として活躍しました。東京小石川(現・文京区)の生れで、中学卒業後、イギリス人について英語を学んだようです。巌谷小波の門下となり、木曜会の一員として文筆活動をしました。時事新報社を経て左久良書房の編集主任となった人です。その柴田の随筆集が『残された江戸』(明治44年)です。明治44年の刊行ですので、江戸情緒がまだ色濃かった東京のようすが見てとれる作品だと思います。
ここでは江戸っ子気の短さがよく描かれています。納豆売りの声を耳にすると、炊きたてのご飯で納豆を食べたいと、納豆売りを呼び止め、辛子もかきたてでとびきり辛いのを添えさせて、ささっと食べ、朝湯へと出かけていく江戸っ子の習慣が見てとれます。

〈納豆と朝湯〉
霜のあしたを黎明から呼び歩いて、「納豆ゥ納豆、味噌豆やァ味噌豆、納豆なっとう納豆ッ」と、都の大路小路にその声を聞く時、江戸ッ児には如何なことにもそを炊きたての飯にと思立ってはそのままにやり過ごせず、「オウ、一つくんねえ」と藁づとから取出すやつを、小皿に盛らして掻きたての辛子、「先ず有難え」と漸く安心して寝衣のままに咬(くわ)え楊枝で朝風呂に出かけ、番頭を促して湯槽の板幾枚をめくらせ、ピリリと来るのをジッと我慢して、「番ッさん、ぬるいぜ!」、なぞは何処までもよく出来ている。
それよりして熊さん八公の常連ここに落合えば、ゆうべの火事の話、もてたとかもてなかったとか、大抵問題はいつもきまったものだ。
次いで幾許もなく寄席仕込みの都々逸、端唄、鏡板に響いて平生よりは存外に聞きよいのを得意にして、いよいよ唸りも高くなると、番頭漸く(ようやく)倦(うん)ざりして熱い奴を少しばかり、湯の口にいた二、三人が一時に声を納めて言いあわしたように流し場へ飛出すと、また入れ代って二、三人、これに対しても番頭の奥の手はきまったものだ。
とかくして、浴後の褌一つに、冬をも暑がってホッホッという太息、見れば全身(ぜんしん)宛(さなが)ら茹蛸のようだ。
「どうでえ、よく茹りやがッたなァ」
「てめえだってそうじゃねえか。これで肥ってりゃァ差向き金時の火事見めえて柄だけどなァ――」
「金時なら強そうでいいや」
「へん、その体で金時けえ――」
 肚の綺麗なわりに口はきたなく、逢うとから別れるまで悪口雑言の斬合い。そんなこんなで存外時間をつぶし、夏ならばもうかれこれ納豆売りが出なおして金時を売りにくる時分だ。

江戸っ子の納豆の食べ方

明治時代もおわりになろうとしていた頃、江戸っ子といわれる人たちもだいぶいなくなっていたのかも知れません。それにしても江戸っ子の行動の早いこと。こんな人ばかりだと、おもわずつられてささっとおいしい納豆ご飯もあっという間に食べ終わってしまいそうです。
また、この文章から、納豆売りが、夏場には朝早く納豆を売った後、もう一度、金時豆を売りに回っていたこともわかります。

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