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納豆文学史「納豆と文学、ときどきこぼれ話」

その11 納豆を通しての実父への思い−斎藤茂吉「念珠集」

斎藤茂吉(1882-1953)は伊藤左千夫に師事した歌人として知られています。茂吉は守谷伝右衛門の三男として、現在の山形県上山市に生まれました。小学校卒業後、経済的に恵まれなかった茂吉は、親戚である斎藤紀一の養子となり医者をめざすことになります。14歳で東京に出たものの、けっして平坦な人生ではなかったようです。父は大正12年、茂吉がウィーン留学中に亡くなってしまいました。そんな父親の想い出をつづったのが、次の文章です。「納豆断ち」とは奇妙なことをしたものですが、逆に父伝右衛門はそれほどに納豆が好きだったのでしょう。医学者の茂吉の眼には奇妙に映った父親の「納豆断ち」も、死後となっては懐かしさにつながったのかも知れません。

〈痰〉
父は痰を病んでから、いつのまにか何かの神に願(ぐわん)を掛けて好きなものを断つことを盟(ちか)つた。ただ、酒も飲まず煙草(たばこ)も吸はぬ父は、つひに納豆(なつとう)を食ふことを罷(や)めた。幾十年も納豆を食ふことを罷めて、もう年寄になつてから或る日納豆を食つたが、どうも痰に好くない。また痰がおこりさうだなどと云つたことがある。父はその時から命のをはるまで納豆を食はずにしまつただらうと僕はおもふ。父は食べものの精進(しやうじん)もした。併(しか)しさういふ普通の精進の魚肉(ぎよにく)を食はぬほかに穀断(ごくだち)、塩断(しほだち)などもした。みんなが大根を味噌(みそ)で煮たり、鮭の卵の汁などを拵(こしら)へて食べてゐるのに、父はただ飯に白砂糖をかけて食べることなどもあつた。併し僕には何のために父がそんな真似を為(す)るかが分からなかつた。
(「改造」1925(大正14)年11月、1926(大正15)年4月)

伝右衛門の「納豆断ち」の光景は、どことなく悲哀に満ちています。茂吉の科学者としての眼が、そう感じさせるのでしょうか、それとも、迷信にとらわれ続ける人間のさびしさがそう感じさせるのでしょうか。

納豆を通しての実父への思い−斎藤茂吉「念珠集」

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