1. トップ
  2. 納豆文学史
  3. その10 江戸っ子の名残を納豆にみる

納豆文学史「納豆と文学、ときどきこぼれ話」

その10 江戸っ子の名残を納豆にみる−夢野久作『街頭から見た新東京の裏面 江戸ッ子衰亡の巻』

夢野久作(1889-1936)は、怪奇と幻想にあふれた独特の文体で知られた作家です。しかし、ジャーナリストとしての経歴もあり、この文章は杉山萠円のペンネームで書かれたものです。関東大震災以降、正統派江戸っ子の絶滅が叫ばれるなかで、福岡県出身の夢野は果敢に東京に江戸の面影を探し求めます。その探検のようすをユーモラスな文体で描いています。大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災は、明治維新では無血開城によって戦災を免れ、東京となっても残されていた江戸の街の雰囲気を一変させたようです。食生活にもそうした変化の波は押し寄せ、この文章などを読むと、この時期になると納豆は夜も食べられるようになっていたことがわかります。「熱い御飯にのっけて、チャッチャッチャッと素早く掻きまわして、鼻の上に皺を寄せながらガサガサと掻っ込んで、汗を拭う風付きは、何といっても江戸ッ子以外に見られぬ」というあたりは、まさに江戸っ子の納豆の食べ方の正統派を見事に描き出しているといったところでしょうか。

〈納豆の買いぶり〉
 こう考えて来ると、江戸ッ子の現状調査は非常な大事業になって来る。自転車に乗って、江戸八百八街を残りなく駈めぐるだけでも大変である。
 市政調査の結果はまだわからないし、わかっても、特に江戸ッ子だけ調べてはないだろうし、調べてあるにしても、昔から東京に居る人間を江戸ッ子と見てある位のものなら何にもならぬ。それよりも、人間のあたまに直接感じた事実の方が、よっぽどたしかであることは云うまでもない。何とかして東京市内に居る江戸ッ子の行(ゆく)衛(え)を探る方法はないかと考えた末、納豆売りの巣窟(そうくつ)を探しまわって売り子の話を聴いて見た。
 江戸ッ子の住家(すみか)であるかないかは、ナットーの買いぶりや、喰いぶりを見るが一番よくわかるということを予(かね)てから聴いていたが、彼等売り子の話を聞くと、成る程とうなずかせられる。
 時間で云えば朝五時から八時まで、夕方は六時から九時頃まで納豆を喰う人種のうちに、江戸ッ子が含まれていることは云うまでもない。それから、買う時に苞(つと)をのぞいて、一目でよしあしを見わけるのは大抵(たいてい)江戸ッ子である。
「オウ、納豆屋ア」 という短い調子や、「ちょいと納豆屋さん」 という鼻がかったアクセントを聞くと、いよいよ間違いはない。おかみが買い渋るのを、怒鳴り付けて買わせるのも大抵は江戸ッ子である。それから、買うとすぐに器用な手付きで苞から皿へ出して、カラシをまぜて、熱い御飯にのっけて、チャッチャッチャッと素早く掻きまわして、鼻の上に皺(しわ)を寄せながらガサガサと掻っ込んで、汗を拭う風付きは、何といっても江戸ッ子以外に見られぬ。
「駄目じゃねえか、こんな納豆を持って来やがって。仕方がねえ、一つおいてきネエ。明日っから、もっといいのを持って来ねえと、承知しねえぞ」など云うのも江戸ッ子に限っている。
 こうして調べて見ると、江戸ッ子の居るところはあらかたわかる。
 先ず下町は山の手よりも多いのは無論であるが、山の手でも早稲田から青山、四谷、大久保方面にはかなり居る。下町では、初めに書いた昔の江戸ッ子町のほかに、大森から蒲田へかけてはかなり居るらしく、小梅あたりには純江戸ッ子らしいのが居る。北の方、千住、亀戸、深川、それから芝の金杉方面にも居るには居るが、これは江戸ッ子としては少し品が落ちる。北の方から深川方面のは寧(むし)ろ貧民に近い方で、芝の金杉方面のは貧民ではないが、イナセな気分が少ない。尚、山の手で純江戸ッ子らしい気前を見せるのは青山方面だけで、そのほかのは矢張り貧民に近いか、又は多少シミッタレているとのことである。
 しかし、何といっても江戸ッ子が一番よけいに逃げ込んでいるのは、東京市内の各所にある市営の避難民バラックである。しかもここには江戸ッ子のあらゆる階級を網羅(もうら)しているので、こちらには立ちん坊、そっちには俥屋、隣りには呉服屋の旦那、向かいには請負師といった風である。ひどいのになると、新橋の芸者を落籍して納まっている親分や、共同水栓で茶の湯を立てている後家さんも御座るといった調子で、これが大多数の熊公八公や諸国人種と入れまじって、天晴(あっぱ)れ乞食長屋を作り、お上の立ち退き命令を鼻であしらっているわけである。
 ちょっと見ると、どれがどうやらわからぬし、納豆を売って見ても、その買いぶりに各所共通の避難民式というのが出来ていてわかりにくいが、流石(さすが)に育ちは争われぬもので、よく気をつけて見ると、どことなく買いぶりが違う上に、言葉が第一争われぬそうである。
 記者が在京中のぞいて見たのは、日比谷と上野と芝公園のバラックだけであったが、こんな話を聴いたあとで見に行っただけに、バラックに居る江戸ッ子が想像以上に多いように思えた。
(九州日報 1924.10.20〜12.30)

博多出身の夢野にとって、納豆はとてもめずらしい食べ物に感じられたようです。そのことは、他の随筆からもうかがえます。

江戸っ子の名残を納豆にみる

〈市議の不正公表〉
納豆売りの云い草ではないが、ちょっと見たところ、こんなものはとても歯にかかりそうにもなく、おまけに下品な悪臭芬々として、いかにも顔をそむけたくなるが、喰いなれて見ると案外おいしくて、消化がよくて、身体(からだ)のこやしになること受け合いだそうである。殊に永年東京に住んでいると、こんなイカものが喰えるようになるらしいので、江戸ッ子になると納豆が好きになるのも、そんな感化を受けるからかも知れない。
納豆を喰うと掃き溜めの腐ったにおいがして、何とも云われずうれしい。殊に豆の本当のうま味がわかるような気がして、とてもこたえられぬ。

かなり強烈な納豆の描写ですが、反面、東京へのコンプレックスともとれるのではないでしょうか。納豆が平然と食べられるくらいに東京生活が長くなることが、東京で生きていけたことの証しでもあったわけです。
地方の人間が東京で生活するとき、納豆売りを足がかりにしていたことは、『東京人の堕落時代』(1925)という随筆の次の部分からもわかります。

江戸っ子の名残を納豆にみる

〈苦学成功の油断から〉
……帝大の苦学生で、苦学生の元締めをやっているのがある。本郷に大きな家を借りて苦学生を泊める。納豆を二銭乃至二銭五厘で仕入れて来て、三銭五厘で卸してやる。苦学生はこれを五銭に売って食費を払う。その二階に大学生は陣取って、変な女を取り換え引き換え侍らして勉学? をしている。
不良とは云えまいが、ざっとこんな調子である。

この文章を読むと、大正時代の末には納豆が5銭で売られていて、小売りで3割のもうけが得られたことがわかります。元苦学生が、都会に出てきたばかりの苦学生を納豆の卸売りまがいのことをして餌食にして、自分は悠然と怪しい女性と同棲しているようすなどを見ると、いまどきの大学生ばかりを批判できない気もします。

※文書や画像を無断で転載・コピーすることを禁止します。